2018年8月9日付、「鏡週刊」の記事を翻訳。

 

https://www.mirrormedia.mg/story/20180801bus012/ 



「小さいころから笑われ、父親の葬式の日もお店は営業」


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楊馬路の身上からは容易に彼の宿命の無常さを感じ取ることが出来る。

 

小学生、中学生の時、学校で先生は「家に帰ったらお父さんにビンロウを食べないように言いましょう」と毎回言っていた。同級生は私の事を笑い「ハハハ、こいつの家はビンロウ売ってんだ」と言いました。

 

テストで良い点を取っても、同級生からはカンニングしたと笑われ、彼は「職業に貴賎なし」という諺を全く信用できず、「それは嘘つきだ」と感じました。




彼の両親は肝臓がんで亡くなった。「この2坪のお店の為に、二人の年寄りは疲れ果てたんだ」

 

彼らの祖先は元は関廟の山間に住んでいましたが、家で養えない切れずに父は小さい頃から武道家に預けられてお手伝いしていました。

 

父親は10数歳の頃には、毎日傷を治す薬を飲み、師匠に棒で体を殴らせ、見物客の興味をひき、薬を売るという商売をしていた。

母親の子供の頃も、同様に貧しく、竹で出来たボロ家に住み、台風が来るたびに家が吹き飛ばされるのではないかと恐怖に震えたものでした。

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父と母は結婚後に台南市に出てきて生活を始めました。最初はビンロウ店の前で飲み物を販売していましたが、その後ビンロウ店の主人が年を取り店の権利を売ることになりました。

二人は借金して店を買い、一生懸命働いて借金を返す生活が始まり、同時にマルやん等の4子女を育て上げました。

 

彼の記憶の中では、何時も母親は夜10時過ぎにならないと晩御飯が食べれませんでした。父親は昼間は別の仕事をし、夜になるとビンロウ店を引き継いでいました。

 

「父親が布団で寝るのを見た記憶がない。夜中でもビンロウ店の椅子に座り居眠りをしていた」

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後に、父親は病気で倒れた。兄弟姉妹はそれぞれが職業についていたので、外に働きに出ていた彼は母親の苦労が忍びなく、1990年代に家に帰って父親の面倒とビンロウ店を手伝うことになりました。しばらくして母親も病気で倒れました。

 

「二人の老人の医療費を稼ぐため、私は毎日夜は12時、1時まで店を開けた。翌日は早朝5時には起きて店を開け、台風が来て町中のお店が閉まっても、私の店は変わらず営業していました」

 


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父親の葬式の日も、お店は普段と変わらずに営業した。

近所の人は何故かと尋ねたが、彼の回答は「貧乏」の二文字だけでした。